衆議院議員渡辺 創

私、渡辺創は、どうして衆院選へ
立候補しようと思ったのだろうか。
自問自答してみると、44年の人生の中で
幾つか思い至ることがあります。

 最初に思い当たるのは、父親の後ろ姿です。私が物心つく頃、父は、それまで経営していた零細な内装会社を後輩に譲り、高千穂町の山深い集落で起こった土呂久鉱毒事件の被害者の会の事務局を担っていました。被害者とは地縁も血縁もない父が、加害企業である大企業を相手に損害賠償を求めて、裁判に訴えていた被害者を支えようとしたのは何故だったのだろうか。
 土呂久鉱害は亜ヒ酸という猛毒を土呂久集落で生産したため、空気と水が汚染され、多くの村人が亡くなり、牛馬が死に、農作物は出来ず、多数の病人を出していましたが、半世紀の間、広く世間に知られることはありませんでした。鉱山会社が国策として被害が出ているのを知りながら、生産を続けた結果です。
 土呂久公害としてようやく世間に知られた後では、被害を小さく見せようとした行政によって、人前で話すことさえ得意ではない山村の被害者の声は抑え込まれようとしたのです。そんな、小さく弱い山村の声を強い力で抑え込もうとした理不尽さへの憤りではなかったのかと、今、父の心情を理解しています。

私が小学生の頃、
土呂久の裁判闘争は山場を迎えていました。
原告勝訴の判決に従うよう被告企業に訴えた被害者が、
東京の寒空の下、
アスファルトの上に何日も座り込みを始めると、
わが家から父の姿は消えました。
時折かかる遠距離電話のやり取りを、
受話器を握る母の背中に掴まって
心配しながら聞いたものでした。
原告団のおじいさんやおばあさんは、
土呂久で会えば、
私にとっては心優しき山村の住民でした。
その人たちが、
何時間も車に揺られて裁判所に出て来て、
タスキを掛けマイクに向かって訴える。
人前で話をすることさえ得意ではない人たちが、
必死で救済を訴える姿に対しての
共感ではなかったのかと、
父の気持ちを想像しています。

私は1977(昭52)年生まれの44歳。胸を張ることでもないのですが、
私には高校中退の経験があります。
ここにも、私の原点があるように思えます。
県立高校が合同選抜の時代です。
私は同級生数十人と一緒に、
あまり考えることなく県立宮崎北高校に進学し、
バスケットボールに熱中していました。
進学高校の部活ですからレベルは推して知るべしなのですが、
入学式より前から先輩に交じって練習する熱中ぶりでした。
ところが、そんな部活で怪我をしてしまいます。
腰の椎間板ヘルニアで、痛みと左足の痺れがひどく、
競技どころか教室で座っていることも苦痛なほどでした。
入院も手術もしました。当然、バスケはできなくなり、
頭は真っ白。自分の存在基盤を失ったような気持ちで、
自己肯定感がグラグラと揺らいで崩れ、何もかもが嫌になってしまったのです。
悶々とする中、自己防衛策として導き出した解決策は
「全てを止める」という選択でした。
今、考えると我ながら幼かったなあと思いますが、
「学校を辞める」と決めて登校しませんでした。
先生たちは慌てました。それ以上に気を揉んだのは母でした。
今思い出しても申し訳ないほどの動揺ぶりでした。
そんな中で中途退学は敢行され、16歳になったばかりの秋に、
私は、高校生でも勤労者でもなくなり、
ましては大人でもないという社会的属性を失った時間を
送り始めることになったのです。
正直に言うと、開放感などは全くありませんでした。
陰鬱とした靄の中から抜け出せない毎日が続いたのです。
母が、あちこちへ教育相談に出掛けているのは気付いていましたが、
知らないふりをしていました。そんな母が「宮崎東高校定時制に昼間部というのがある」と言い出したのです。母の願いに根負けした振りをしましたが、
実は、私自身、社会的属性のない生き方が手詰まりになっていたのでした。

再び制服を着て2回目の高校1年生になったのです。
宮崎東高校定時制昼間部というのは不思議な高校でした。
単位制で1学年1クラス。
私は5期生でした。まるで大学の授業選択のように、
かなり自由に受講科目を決めることができました。
まだ腰の治療が続き、入院や手術を繰り返していた私にとっては、
実に都合の良い学校だったのです。
だからといって放置されていたのかというと、
そうではありません。
どの先生も個別に大学受験に辿り着けるよう
細かい指導をしていただいたし、
歴代の教頭先生は放課後に個別指導までしてくれました。
学校現場の多忙ぶりを考えると、
驚くほどの寄り添い方でした。
私は、この学校で「多様性」と、
違いを受け止める「寛容さ」に気付かされました。
みんなが一律である必要はないのだと気付いたのです。
世の中から見たら標準ではなかったとしても、
だから何が悪いわけでもない。
いい意味で人は人。
私は「こうありたい」と思うことを
実践すれば良いのだと、学びました。
私自身のつまずきも含めて、
定時制高校の卒業生であることと、
人とは違うユニークな4年間の高校生活を送ったことに、
今も誇りを持っています。

さて、定時制高校から新潟大学法学部を卒業して、
毎日新聞に入社したのは2001年の春。
21世紀最初の新入社員でした。
初任地は横浜で5年間を過ごしました。
ここで結婚し、長女も生まれました。
初任地では大半を警察担当として過ごしました。
どうしても忘れられない事件事故が2つありますが、
その一つをお伝えします。記者1年目のことです。
私が初めて現場に臨場した事件でした。
マンション型の公営住宅で未明に火事があり、
小学生の兄弟3人が亡くなったのです。
取材を続けると、火元は仏壇のロウソクでした。
夫を亡くして一家を支える母親は、
昼と夜の仕事を掛け持ちしていて留守でした。
子どもたちは仕事に行く母親を見送った後、
父親の仏壇に火を灯して眠りに落ちてしまったのでしょう。
その火が引き金になってしまったのです。
夫を亡くし、必死で働く母親。寂しさを我慢し、
亡き父を思ってロウソクを灯した子どもたち。
一所懸命生きただけなのに、
子どものために懸命に働いただけなのに、
誰が母親を責めることができるでしょうか。
そんな働き方をしなくても、
みんなが当たり前の生活を手にできる国だったら、
母親が家に居ることができていれば
3人の子どもの命は救われたかも知れない。
あれから20年の月日が流れました。
あの泣き崩れていた母親はどうしているだろうか。
私は、この事件の取材を切っ掛けに、世の不条理を痛感し、
社会が救うことのできる不条理がある筈だと思い始めました。

11年ぶりに国政に挑戦

 2010年には、毎日新聞政治部記者を辞して参議院選挙に民主党公認で挑戦しましたが、次点で落選しました。その翌年、県議会選挙宮崎市選挙区で初当選し、その後連続3期宮崎県議会議員を務め、この間、民主党や民進党の県連幹事長、2018年2月に旗揚げした立憲民主党の県連代表を務めてきました。そして、今年9月6日に宮崎県議会議員を辞職し、国政への挑戦を改めて覚悟したところです。宮崎市東大宮で、妻と高校生の長女、中学生の長男と一緒に暮らしています。
 実は、初挑戦した参議院選挙での落選に後悔はしていません。懸命に応援して頂いた皆さまからはお叱りを受けるかも知れませんが、むしろ良かったとすら思っています。理由は明瞭です。 当時の私は、全国紙の政治部記者を経て突然宮崎に戻った身で、いくら志はあったとしても、本当の意味で宮崎の声を体現できる存在であったかと、私自身、疑問が残っているからです。
 私にとって県議会議員として過ごした10年4か月の歩みは、懸命に宮崎の声を紡ごうとしてきた時間でした。1人の生活者として宮崎の四季に身を馴染ませ、子どもを育て、地域コミュニティーの一員として笑顔で汗をかいてまいりました。 暮らしの中から見つめるべき宮崎のあり方を問い続けてきたのです。その歩みの中から、もう一度、国政への挑戦を決心したのです。今度こそは、どうしても結実させなければなりません。

私が国政で取り組むことを簡潔に4つだけ記します。

 私が、何のために国政を目指すのかと置き換えていただいても構いません。

1つは、選択できる社会を作ることです。

 政治に大切なのは誰もが生きやすい社会を築くことだと思います。例えば、選択制夫婦別姓や性的少数者を巡る問題もそうです。オーソドックスではないからと言って何の問題があるのでしょうか。誰もが、生き方を選べる社会にしたいと思います。お互いに「それもいいね」と言える寛容な社会を作りたいと願っています。

2つ目は、「困った時に不安のない社会」を可能にする社会保障制度を構築することです。

 私が社会人になった時代は就職氷河期と呼ばれた世代でした。景気変動と社会構造のツケが一気に噴き出し、就職口が極端に狭まり、そこであぶれると非正規雇用から抜け出せないという困難を抱えたまま社会に放り出されたのです。その世代が、すでに40歳代を構成しているという現実を受け止めなければなりません。あと20年もすれば、この世代が高齢者にスライドしてくるのです。そのためには社会保障の考え方を根本から見つめ直し、「不安がない」を担保できる助け合いの社会を確立するしかないと考えています。
 今のこの国の政府は、不誠実だと思います。いつまでも昭和モデルの成長戦略の成功を前提にした社会保障の充実を語ろうとしています。経済成長を否定しているのではありませんが、すぐに結果を生む成長戦略など描けない時代になっている現実を見つめなければなりません。低成長の経済であっても、安心して暮らせる社会を実現する道筋を導き出さなければ、行き詰まってしまうと憂えているのです。

3つ目は、教育の充実です。

 特に、義務教育と、全入に近い高校教育の充実です。頑張りたいと思う子どもには、等しく頑張れるチャンスがあり、同時に躓いてもやり直せるし、人とペースが違ってもいい。そんなことを担保できる教育環境を整えたいと構想しています。子どもを大切にする社会は、誰をも大事にする社会につながると、私は信じているからです。

最後は、立憲主義を貫きます。

 私は日本国憲法の理念に誇りを持つ一人です。議論はいくらあって良いのです。しかし、私は、この憲法の根幹を為す理念を守り通す立場から議論に参加したいと思っています。安全保障については、目の前の課題には現実的に対応し、その上で、権限の行使については冷静かつ抑制的にあるべきとの姿勢です。

明日はきっといい日になる。
そう信じられる社会をつくろう。

 第49回衆議院議員選挙に臨むにあたって、皆さまにご理解をいただきたいことがあります。衆議院選挙で我々が勝利し、政権を取ったとしても、すぐに政策を大転換することはできないのです。言い訳ではありません。衆議院で過半数を占めても、参議院では少数という捻れ現象に陥ることになります。しかし、参議院の半数を改選する選挙は来年の夏。この選挙が本格的に国会の構造を変えるチャンスになります。したがって、本当の闘いは、来年夏の参議院選挙までの「2回戦」なのです。その上で、何としても、まず、「第1回戦」の衆議院選挙を勝利に導いていただきたいと、切に願っています。
 私、渡辺創は「明日はきっといい日になる。そう信じられる社会をつくろう」の理念を掲げ、国政に挑みます。10年4か月の間、県議会議員として宮崎の声を紡いできたからこそできる国政の政治家であり続ける覚悟は揺るぎません。

畜産農家の現状を伺うために、国富町の農家へ